「式」について
人生においては、いろいろな「式」があるけれど、そのどれもが、自分自身の中に「けじめ」をつけるものだと思っています。
入学式・卒業式・成人式・結婚式・・・そして、お葬式
娘は今年、生まれて初めて「入園式」に出ましたが、彼女にとっては大人びた『式』に出ることで、自分の世界を広げて社会への一歩を踏み出すこと、そして、「この幼稚園に入るんだ」となんとなく理解したのではないかと思います。
話は変わりますが、先日、祖母が亡くなり、お葬式に参列してきました。
もう、かなりの高齢だったので、おめでたい部類に入りますが、今まで存在していた人がいきなりいなくなるというのは、とても寂しいものだなぁ…と思います。
お葬式って・・・・言い換えると、「告別式」=別れを告げる式なんですよね。
つまり、本当は、亡くなった人のためのものではなく、残された人たちのための式なのではないかと思います。
特に、両親を見ていてそう思いました。
亡くなったのは、自分の親だから、悲しい、深い喪失感があるのではないか,
でも、自分が中心となって、お葬式の手配をしたり何かと動き回ることで、その悲しみの奥深くに沈み込まずに、いられるのではないかなぁ・・・と。
私の実家の兵庫の北部では、納骨をするまで、毎日祭壇に向かって鉦をたたきながら「ご詠歌」をあげます。それは、懐かしいような節回しを持っていて、本当に歌っているようです。33番(プラスいくつか)までありますので、これを歌うだけでも1時間くらいかかります。それに心経やマントラを唱えるので、実際には全部で1時間半ほど。
詳しことはわかりませんが、西国33番の霊場を読んだその歌を歌うことで、亡くなった方の霊が次の段階へ移行するのをサポートするのだといわれていますが、それも、本当は残された人たちの気持ちに対しての習慣ではないかと思います。
お葬式が終わって、今までいた人がいなくなってしまったのに、いきなり普段の生活に戻れるわけではありません。
そこで、納骨までの数週間を祭壇に向かって歌うことで、彼らは、その人が本当に逝ってしまったという事実を、ハートで理解するのではないかな・・・と思います。
さて、このGWには祖母の忌明けです。みんなにとって都合の悪くない、桜が満開の美しい日に息を引き取り、みんなが集まれるGWに忌明けの法事ができるようにと、図ったかのように祖母は逝きました。