エゴとネガティブ
正直、私、昔から地震とか苦手でした。
理由はわかりませんが。
なんか、怖いのです。
自分ひとりだったら、そうは思わないけど、大切なものが失われると考えると、とても怖いのです。
そしてそれがなくなったときのことを考えたら、とても悲しい。
で、この「恐怖心」とか「悲しさ」とか、いっそのことなければいいのにと思い、どうやったらこれがなくなるのかと、ここしばらく考えてました。
これらのネガティブな思いというのは、「自分のこだわり」とか「自分の大事なもの」とか「自分の守りたいもの」とか、そういう、ある種の「(「自分の」という)エゴ」から来ているのではないかと思います。
としたら、エゴがなくなれば、こんな思いをしなくてもいいのに…。
そうおもったのだけど、途中で待ったが入りました。
エゴ(自我)というのは「自分はこうしたい」とか「自分はこれが欲しい」と感じる原因のひとつではありますが、それは本来、この世界でいろいろと経験をするための原動力となります。
それがなければ、なにかに固執したりすることもありませんし、何かをやろうという気持ちにもなりません。
ということらしいです。
なるほど。
エゴというのは、ある種のセンサーみたいな働きを持っていて、外界から入ってきた刺激に反応してある種の感情を起こさせるということでしょうか。
(スピなんかやってると、たまに「エゴを捨てる」とかききますが)、とすると、本当にそれを失くしてしまったら、外界から得る体験について、ネガティブにもポジティブにも心が動かなくなるのだろうと思いました。
ある意味、エゴがあってこの世界を体験することに意味があるのかもしれません。
反対に言うと、死ぬときにはきっとエゴの殻も脱ぎ捨てるのだろうから、生きているうちにエゴを失くしてしまったら、(仙人を目指しているのなら話は別ですが、)生きる意味がないような気がします。
だったら、怖いとか悲しいとか怒りとか、そういうの、思う存分、生きているうちに味わうべきなのだと思いました。
だからと言って、ネガティブ100%や自己中心的に過ごせと言っているのではありません。
エゴのセンサーによって引き起こされる感情は、「嬉しい」や「楽しい」や「心地いい」というポジティブな物も含むからです。
ネガティブがあっても、いや、あるからこそ、それをしっかりと見つめて、それに振り回されないようにしっかりとセンタリングし、足を踏ん張って生きていく道を模索することが、生きるということの一つの意味であるのかもしれないと思いました。
結局、ネガティブな思いの解決法としてはエゴを捨てるというのではなく、反対にしっかりと直視しなければいけないのだとわかりました。
自分は何が怖いのか、何がいやなのか、何が悲しいのか、何に対して怒ってしまうのか…
そういったことから目をそらさずに、きちんと見つめて理解しておくことで、無条件にネガティブに反応してしまうことを防ぐことができるのではないのかな、と。
エゴを捨てることが必要なのではなく、エゴをコントロールするということが大事なのではないかと思いました。
そうしていくことで、ポジティブな思いに対しても同様に、コントロールしていくことができるようになるのかもしれません。